細島をブラリ ~1万歩~

ぶらり
高鍋屋

 宮崎県日向市細島を紹介します。
 運動がてらに細島の史跡・名勝をぶらりと歩いてみました。およそ10,000歩でした。走れば1時間、普通に歩くと約2時間で、じっくり観て歩くと3時間です。適度?にアップダウンがあります。

 細島は、九州の東沿岸の中央付近に位置し、日向灘に面した入り江の深い天然の良港で、古くは江戸時代以前から江戸や東九州を結ぶ交易の中継地として発達し、多くの有形、無形文化財が存在する街並みです。

 細島地区の入り口にあたるところに日向市の細島支所があるのですが、そこに細島の史跡などを紹介した大きな看板があります。看板を参考にして大まかにそれに沿って歩きます。

 まずはスタート地点の「関本勘兵衛住宅」です。

 ここは、屋号を「苫屋(とまや)」といい、細島港の恵みのもとに江戸時代から代々商業を営み、現代に至っています。本建物は明治12年(1879年)4月の建築で、奥行きの長い地割に特徴が見られ、典型的な「町屋」の形態を保っているものとされています。

 次は県指定遺跡の「有栖川征討総督宮殿下御本営跡(摂津屋)」です。関本勘兵衛宅からおよそ1分ほど歩きます。

 この史跡(摂津屋)は、 有栖川征討総督宮熾仁親王が西南戦争の折、指揮を執った場所です。 明治10年(1877年)の西南戦争において、本市(日向市)をはじめ、宮崎県北地域の各地で西郷軍との大激戦が展開されていました。当時の細島は官軍の拠点となっており、軍艦が入港して兵隊を上陸させていました。その際に、有栖川征討総督宮熾仁親王は摂津屋善兵衛宅を「征討総督本営」として、 一ヶ月程度滞在し、西郷軍鎮圧の総指揮にあたったということです。

 先ほどの摂津屋からおよそ5分ほど歩いて「西南の役 細島海軍墓地」にきました。「官軍墓地」 とも呼ばれています。少し斜面を登らなければなりません。

 ここ西南の役 細島海軍墓地は、明治11年4月に明治政府が、西南戦争の折に宮崎県内各地で戦死、戦傷病死した「迫田鐡五郎少佐」以下(官軍兵士、警察官、軍夫等)319柱を弔い、開設しました。
 ここに葬られている人々の多くは、遠く東北地方から西日本各地の出身者で、九州出身者も若干名見られます。
 「西南の役 細島海軍墓地」は、わが国における近代初頭の混乱期の証として重要な文化財であり、その歴史解明のための多くの事項を包含した史跡とされています。

 これまで、あたかも調べたかのように書いていますが、そう説明された石碑が建てられているのでそれを紹介しています。今後の紹介もだいたいそうです。

 墓地から下り、5分ほど歩くと「高鍋屋」が見えてきます。本市において唯一の木造3階建ての建物です。宮崎県でもここを含めて2軒しかありません。現在は資料館になっています。

 ジブリの千と千尋の神隠しに出てきそうな建物ですね。

 ここ「高鍋屋」は代々、三輪家により営まれていた旅館で、現在の建築は棟札によれば大正10年であると考えられています。
 高鍋屋の屋号が示すとおり、高鍋藩とのかかわりが深く、高鍋藩主秋月氏の参勤交代の休憩の屋敷があっところです。

 有料ですが、資料館を見学すると、幕末のいろいろな物が見られます。坂本竜馬が持っていたピストルと同型のものなど展示されています。建物自体の内部構造も見ものですよ。

 次は、少し歩いて、広い道から少し細い路地に入り(看板があります)、しばらく行くと国指定文化財「妙国寺庭園」です。

 妙国寺は室町幕府時代の康永元年(1342年)に開山したと伝えられ、池泉式の庭園は国指定の名勝になっています。庭園は自然の岩石、木々を背景として、築山が三界(過去、現在、末来)を、中島は彼岸を現し、仏法の具体化とも伝えられているということです。

 残念ながら、池の水が漏水で抜けていました。小難しい説明も読みました。さっぱり意味はわかりませんでしたが、雰囲気はよかったです。(凡人の感想)

 次は個人的になぜだか一番興味がある「常夜灯」です。
細い道をずんずん登っていきます。小高いところにあるようです。途中から舗装道ではなくなり、少し不安になってきます。プチ登山気分です。低い丘のようなところですが、ほぼ頂上まできました。

 結構歩いて、汗がじんわりにじんだころにやっと見えてきました。想像より大きく、3mほどの高さがありました。昔は、周りに木が無くて遠くからでも明かりが見えていたでしょう。昔に戻ってみてみたいものです。
 この常夜灯は明治11年(1878年)に建立されたもので、宮崎県にはもう一基残されているのみだそうです。

 常夜灯から少し坂を下ったところから町並みを撮影したものです。細島の港町が見渡せます。

 次は、これまた歴史のあるお寺です。「観音寺」になります。このお寺は大永5年(1525年)開山、延宝6年(1678年)に曹洞宗に改宗、寺院名も「慈眼山観音寺」と改められました。


 明治時代初期、明治4年(1871年)1月4日に、大納言岩倉具視が鹿児島県に赴いたその帰途、陸路にて到着され、観音寺に宿泊されています。同日、細島に軍艦にて入港した大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、山県有朋、川村大輔らの維新政府の諸侯と観音寺において会談をし、翌5日に、ともに軍艦にて帰京されたということです。

 そこからちょっといったところに急な階段が有ります。「鉾島神社」です。

 ここは旧八幡神社で、大正10年に細島地区の神社を合祀して現神社名になりました。

 祭神はホンタワケノミコト、オキナガタラヒメ、オササキノミコト、ほか2柱。
例大祭は11月ということです。

 お参りを済ませて、また5分ほど歩くと「細島験潮場」が見えてきます。

 験潮場としては日本最古で明治26年(1893年)に創建されています。
ここは、海面の高さを測定して、高さの基準を決めたり、土地の変動を調べるための資料を収集する場所となっています。

 関本勘兵衛宅をスタートして験潮場までは東へ東へと足を進めてきましたが、験潮場からはスタート地点方面(西)に戻ります。もうすぐゴールです。帰りは港に沿う大きな道を歩きます。

漁港や海の駅(レストランと売店)、時折、古い建物などがあります。

 10分~15分歩いて最後は「細島駅跡」です。今はありませんが、ここに木製の駅舎が建っていたようです。私が中学生のころまでは駅舎があったように思います。全体像がうっすら記憶にあります。線路跡には所々に枕木がまだ残っていました。

 平成5年に廃線になりましたが、日向市駅(旧富高駅)から細島駅まで鉄道が通っていました。細島線は、大正10年(1921年)に開業し、平成元年(1989年)休止になるまで使用されていたようです。線路距離は3.5kmで途中に伊勢ヶ浜駅があり、計3つの駅があったようです。

 今回の細島ブラリはこれにて終了です。細島の先には、「黒田の家臣」と呼ばれる干潮時に歩いてわたれる島や、名勝地の「馬が背」、「クルスの海」など、まだまだ見所がいっぱいあります。地球は丸いと感じる絶景をぜひご自分の目で見てもらえると幸いです。

 ああ疲れたと歩数を確認してみると、1万0631歩でした。いい運動になりました。
ふと見上げた空の雲が・・・

キャタピラーの跡みたいだな。

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